九誉覺公上人像

 天正16年(一五八八)に遷化された空叔輪峰によって開山。その後、九誉覺公上人が寛永年間に海草郡加茂谷方村にあった西方寺を移築した寺と伝えられている。江戸時代には徳川家より約百石の俸禄を賜っていた。伝承によると、和歌山城の西の要塞ということから「西要寺」と名付けられたと言われ、和歌山城と地下道で繋がっていたとも言われている。十間四面あった本堂が明治21年に台風で倒壊し、古木古瓦を用いて七間四面の仮本堂が再建され現在に至る。

 紀州藩第10代藩主徳川治寶公親筆の「荘厳閣」の額がある。また、本堂の屋根には、和歌山城や根来寺の瓦に関わったといわれる寺嶋甚兵尉の天和三年(一六八三)作の鬼瓦が据え付けられており、この鬼瓦の複製品が、京都府福知山市大江町の「日本の鬼の交流博物館」に展示されている。その他、安土桃山時代の天正8年に行われた逆修の石碑が現存する。